Sunday, March 13, 2011

街場のメディア論 (光文社新書)

Author : 内田 樹
Total Page : 211
Publisher : 光文社
Publication Date : 2010-08-17

街場のメディア論 (光文社新書)
>> 書く本ごとに文体が微妙に変わる人。メディア論なら天野祐吉でしょ?
書く本ごとに文体が微妙に変わる人だなと思う。ある意味、著者は気分屋さんなんだろうな?と思う。

また、様々なジャンルで本を執筆なさっておられるし、それなりに著書で知識を披露しているんだけど、



正直に言うと、著者を読むより 宮台真司氏 やメディア評論家の 天野勝文氏 若しくは天野祐吉氏 の著書の方がメッセージ性に優れていて、

問題点も独自の慧眼で的確に指摘しているし、文体も内田氏と比較すると圧倒的に優れていると思うわ。



また、内田氏の各々の著書に一貫して共通しているのは著者自身の知識の披露だけで終わっている感じだし、

著者の言いたい事の結論=読者への明確なメッセージを明言しないのよね。



難解な学問を平易に解説した訳では無く、

読み手や読み方に因ってはどうとでも受け止められる様な事をだらだらと学生の様な文体で書いている。要は詭弁なのよね。

だが、善良な読者は「○○が先生の思し召しなんですね」等と善意に受け止めている人が多い。

著者は問題提起と知識披露はしても結論を明言しない事によって、真っ向からの批判を避けているともとれるわ。



そして、私が思うに著者が読者から受ける理由、

それは「内田氏の一連の著作を読めば、普段読者が読まない専門ジャンルの触りを解った気にさせてくれる」事だとおもう。

著者は、様々なジャンル関係の本を書く際、そのジャンルでの研究者や専門家が述べる「何某かの学説」と「其れを論じた学者・作家等の名前」を比較的沢山書いているのよ。

「○○の学説を出した誰某はこう言っていた」等等、それによって読者は「○○の学説を述べた誰某」と言う知識を簡単に得る事が出来るわね。

しかし、それを知った事を切欠に「誰某と言う学者」の著作を読み始める読者は恐らく100人のうち1人いればいい方だろうと思うの。



要は内田氏の本を読む事で読者は「即席で博識な知識人もどき」になれるのである。

だが、内田ファンの読者は実際に内田氏の紹介する学者の本や学説を読んだ訳ではないので、その手の専門家や学生から突っ込みを入れられると答えられないと思うのね。



肩書や学歴イメージ等に弱い単純な人相手に何か会話をする際、内田氏の文章の様に言葉や話題を弄び、

話題の中に内田氏の本で仕入れた専門知識もどきの「学者の名前と学説」を織り込めば、

一瞬のうちに自分を相手に「頭のいい知識人」だと認識(誤認)させる事が出来るのは請け合いでだと思うわぁ〜。



一昔前男性誌にあった「落合信彦」を読んで女性の前で世界情勢を語って女性から尊敬を受けよう。みたいな、あのノリにしか見えないのよね。

内田氏の本はもっともらしいんだけど、何か釈然としない、

「結論や答えは内田の本の文章の中から自分で探せ」的なノリが私は嫌ね。

オピニオンぶちかますんなら、他人の学説や言葉を借りつつも、己の意見を明言してこそのオピニオンだと思うわ。
>> わかりやすい
内容は結構多岐にわたっており、面白い。ちなみに、私のなかでなるほどなーと思ったのは2つ。1つは、メディアは弱者の味方をしすぎているということ。(始めはそれでいいけれど、事実がわかればいつまでも弱者びいきで報道してはいけない、と内田さんはいっている)。もう1つは本棚はなりたい自分を具現化していること。なぜ紙の本がいいのか? なんとなく思っていたことを具体的な言葉にしてもらった感じでスッキリした。
>> 知的冒険をメディアはどうやって支える?
91ページに書いてある次の言葉が刺さる。

「僕たちが今読まされている、聴かされている文章のほとんどは、血の通った個人ではなく、定型が語っている。定型が書いている」。

これはメディアの問題に限らず、書き手の問題であり、そういう書き手しかいないという問題でもある。そして書き手の多くは、元々は読み手でもあった。だからメディアは読み手の鏡なのだ。まえがきで語られている「メディアの不調はわれわれの知性の不調」という言葉は、そういう意味にもとらえられる。



このダメな合わせ鏡からどう抜け出すか。それは鏡をぶち壊す書き手の冒険心と非常識性と、メディアの「これはひょっとすると読み手が一人もいないかもしれない」という不安に打ち克つ精神に期待するしかないと思う。では、それを可能にするサポートは? これがこれでむずかしい。。



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